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阿倍仲麻呂と遣唐使船  (2025.02.25)

皆さん、こんにちは。
相変わらず寒い日が続いていますが、そろそろ寒波も遠ざかるのではないかと期待しています。

さて、前々回、前回と飛鳥〜奈良時代をテーマとして取り上げておりますが、
今回は、奈良時代を語る上では外せない、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)についてです。
前回のお話の中で、平城京の朱雀門手前で、復元された遣唐使船を見ることができる、と書きましたが、
私たちが見る限り、小さな船といった印象の遣唐使船に乗って、日本から唐へ渡った人の内、
有名なのは、空海、阿倍仲麻呂、そして吉備真備ではないでしょうか?
比叡山に開創した最澄もそうですね。
空海と最澄は同じ時期に留学生として遣唐使船で渡唐しています。

もちろん、それ以前の飛鳥時代にも中国へ渡った有名な人がいます。
それは第一回目の遣隋使として、聖徳太子の書状を渡すために隋に渡った小野妹子です。
その初期の頃の遣唐使船はどんな船だったのか、あまり記録はありませんが、
一度に100人超の人が乗っていたとされますので、かなり定員オーバーだったのでは??
しかも、遭難する確率も非常に高かったのではないかと思われます。

復元された遣唐使船
 ↓↓



また、遣唐使船には、中国の皇帝に献上するたくさんの品々も船に載せていたようです。
もちろん帰りの便では逆に、中国から持ち帰る貴重な品物も多かったことでしょう。
正倉院の宝物の中には、そうした素晴らしい美術品などが多く残されており、
現在でも実際に見ることができますが、以前、ご紹介した「白瑠璃碗」もそのひとつです。

現在の日本文化は、遣唐使が中国との往来の中で伝えられたものが強く残っています。
特に空海が持ち帰ったものが非常に多く伝えられていますね。
例えば小豆とか、うどんの製法など。

しかし、なぜそこまでして中国に行かなければならなかったのか、
それはやはり中国に学ぶべきものが多く、都市づくりや文化なども含め、
中国に追いつきたい、という思いも強かったのでしょう。

ところで奈良時代に入ってからは初めての、第九回目の遣唐使船に乗ったのは、
阿倍仲麻呂、吉備真備などです。
当時、遣唐使船に乗って唐へ行くためには、推薦が必要だったとのこと、
彼らは本当にとても優秀な方々で憧れの存在だったのですね。
遣唐使船も紅白に彩られていたとか、大きな夢を抱いて留学したのだと思いますし、
お見送りも盛大に行われたに違いありません。

皆さんが、その頃の様子として勉強できる方法のひとつに、やはり「映画」があります。
2018年だったかと思いますが、「空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎」という映画がありましたが、
出演者の中で、阿倍仲麻呂を演じたのが阿部寛さんです。
とても良い映画だったので、ぜひ皆さんもご覧になってみて下さい。
現在、オンデマンド配信もされています。

阿倍仲麻呂が留学生として遣唐使船に乗ったのは、717年のことです。
藤原京から平城京に遷都されたのが710年ですので、その7年後、まさにこれからの日本を
背負って立つべく方々が唐へ遣わされたのです。

無事に唐へ到着した阿倍仲麻呂は、何はともあれ言葉を勉強したと思われますが、
その後、大学で学び、いわゆる中国の公務員試験とでもいいましょうか、
極めて低い合格率の中、「科挙」を受けて、見事に合格します。

その後はどんどん昇進していき、玄宗皇帝の目にもとまり、重用されました。
その頃の阿倍仲麻呂にとっての親友は、李白だったといいますので、そのレベルは想像以上です。

ところで、阿倍仲麻呂はどこで生まれたのでしょうか?
生まれ年は698年、現在の奈良県桜井市阿部と言われています。
遣唐使となったのは16歳(19歳ともいわれる)とのことです。
また、遣唐使の長期留学は最長で20年だったそうですが、唐へ行ってから20年後、
その時には玄宗皇帝が帰国を許さず、日本に帰りませんでした。

実は、阿倍仲麻呂のミッションのひとつに、
中国のすぐれた高僧を日本に連れて行く、ということがあったのではと言われていますね。
その20年後、彼はすでに50代となっていましたが、ようやく皇帝の許しも得て、
鑑真和上とともに帰国することとなりました。
その際、4艘の船の内、鑑真和上は第二船、阿倍仲麻呂は第一船に乗っており、
途中、嵐に巻き込まれて第一船は、ベトナムに漂着してしまったのです。
鑑真和上も、それまで4度も5度も失敗して、失明という憂き目に遭いながらも
この回でやっと日本に辿り着けたといいます。
その後は皆さんもご存知のように、唐招提寺を建立しています。

阿倍仲麻呂は、帰国直前に開かれた会で、
「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」

この有名な歌を詠みました。

思い出せば30年以上も前、奈良での送別の宴の時に見た三笠山から出ずる月と
今宵の月は同じなのだな・・と望郷の想いを寄せたといいます。

結局、阿倍仲麻呂は、その後も日本に帰ることができず、
長安の都で生涯を終えたと伝えられています。

ちなみに、関西では、どら焼きのことを「三笠山」とか「みかさ」と呼びます。
なだらかな曲線が三笠山から出る月に似ているから、
または曲線そのものが三笠山に似ているなど複数の説があります。

 
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