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思わず見入ってしまう2分の一サイズの北前船
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皆さん、こんにちは。 まだまだ残暑も続いておりますが、これから秋に向かっていくので、 少し嬉しい今日この頃です。 この時期から年末までの観光シーズンは、忙しくてあっという間であった 思い出が多いのですが、特に、秋以降といえば北陸、寝ても覚めても 北陸にお仕事へ行っていた頃がありました。
北陸には、加賀温泉郷といわれる、山中、山代、片山津など 多くの温泉があるのですが、北陸自動車道の片山津ICからほど近く、 北前船の資料館があります。 観光コースに入ることは少なかったのですが、 北前船のお話は、北陸では不可欠なので、 1度、自分の足で見学に訪れたことがありました。
北前船というのは、江戸時代から明治初期にかけて、 北は北海道から日本海側を下関を経由してグルっと回り、 大阪まで運行した大型の貨物船のことです。
こちらの写真は北前船の2分の一サイズです。 ↓↓
平成29年、文化庁より北前船寄港地が日本遺産に認定されました。
資料館に模型もあるのですが、非常に興味深く、 日本海仕様とでもいいましょうか、 荒波の中を航行するために、船体がグーっと反り返っているらしいです。
この北前船で巨万の富を築いた人、というと、 やはり、銭屋五兵衛が思い出されます。 金沢、能登方面へ行く場合には、必ず話題に出る人ですね。
江戸時代を代表する、海運業者で、 その資産は300万両とも、今で換算すると、およそ100億円とか。 「海の豪商」、「海の百万石」と称されました。 何しろ、それを一代で築いたのですから驚きです。
全国に支店のようなものを34ヶ所設け、 ネットワーク的な全国網を使って、体制を確立したそうですが、 その始まりは39歳の時、ボロボロの船で航海し、 以降、20年間、海のドンとして活躍しました。
貿易は、日本だけでなく海外にも及びましたが、 当時は鎖国中ですので、海外貿易は当然、禁止です。 しかし、見返り品を加賀藩に献上していたので、 藩も財政危機だったこともあり、見て見ぬふり、 黙認していたようです。
銭屋五兵衛、通称銭五(ぜにご)、多くは加賀でとれた米を 蝦夷へ行って売り、その帰りに木材や海産物などを積んで大阪へ。 これで、巨万の富を築くのです。
しかし、晩年は、河北潟という湖の干拓工事を手がけた際、 たくさんの魚が死んでしまう、ということがあったのですが、 五兵衛が河北潟に毒を流した、と口々に言われ、 無実の罪で、ついに捕らえられ、80歳で獄中にて亡くなりました。 財産も、すべて没収され、家族も処刑されました。
金沢西ICから、ほど近い場所に、銭屋五兵衛の記念館があり、 観光コースに入ることもあります。 航海で使用していた望遠鏡や、船箪笥など、 興味深い展示物がたくさんあり、こちらでも北前船の模型を 見ることができます。
銭屋五兵衛は、海運業を営む上で、数々の偉業を残した人なので、 いつか北陸方面へ行く時にはぜひ、「海の百万石」と呼ばれた人が いたんですよ、とご案内して差し上げて下さいね。
(2021.08.29) |
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