|
ロマンを感じずにはいられない大和三山
|
皆さん、こんにちは。いよいよ今年もあと僅かですね。 毎年のことですが1年は早い!この一言に尽きます。 これからしばらく寒い日が続きますが、春が来るまでは我慢ですね。
私はハイキングがてら、あちこち歩くのが好きですが、 ガイドの勉強を兼ねて、奈良の「山の辺の道」にはよく行きました。 春は本当に気持ちよく歩けますし楽しいコースですが、 観光バスではなかなか山野辺を歩くコースはないですね。 京都の哲学の道も、コースに入ることがないと思うのですが、 お客様には車中でおすすめしています。
少し高台に登れば、美しい大和三山を望むことが出来ますが、 大和三山とは、天香久山・畝傍山・耳成山の3つの小さな山のことで、 奈良盆地の中にポッカリと浮かんだように、 例えば、西名阪自動車道を降りて、飛鳥方面に向かう車窓でも それぞれ見ることができます。 奈良盆地は大昔は湖だったと言われていますが、 何となく頷ける風景です。
まず、天香久山(あまのかぐやま)の高さは152m、 天から降ってきたといわれる山で、 大和三山の中では女性に例えられる重要な山です。 ふもとには天岩戸神社があるのですが、本殿はなく、 天照大神が隠れたとされる岩をご神体としています。 こちらの持統天皇の歌は覚えやすいので、ぜひ覚えましょう。 「春過ぎて 夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天のかぐ山」
読み方: はるすぎて なつきたるらししろたえの ころもほしたりあまのかぐやま
続いて、畝傍山は198.5m、三山の中で最も高いので、 どこからでもわかります。 この山は死火山です。 ふもとには、橿原神宮や神武天皇陵があります。
最後に耳成山ですが、高さは139.3mです。 三山の中では、本当に山らしい三角のきれいな形になっています。 ちなみに、この耳成山も死火山です。
日本で初めての都(藤原京)は、この大和三山を三角形に繋いだ ちょうど中心にあったので、それは意図的にその位置に作られたと ロマンを感じずにはいられません。 藤原京は、天武天皇と持統天皇(妻)が造営しましたが、 16年後に平城京へ遷されました。
この時代の天皇について、即位前の名前と即位後の名前が違うので なかなか、名前や関係性が覚えにくいのですが、 まずは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)を1番に覚えましょう。 中大兄皇子は、大化の改新で知られていますね。 天皇即位後、中大兄皇子 → 天智天皇となります。
中大兄皇子(天智天皇)には息子がいましたが、 名前を大友皇子(おおとものおうじ)といいました。
続いて中大兄皇子(天智天皇)には弟がいました。 弟の即位前の名前は大海人皇子(おおあまのおおじ)といいました。 大海人皇子は後に即位して天武天皇となります。 妻は、讃良皇女(さららのひめみこ)→天智天皇の娘です。 後に天武天皇崩御後、持統天皇として即位しました。
そもそも、中大兄皇子(天智天皇)は弟の大海人皇子ではなく、 息子の大友皇子に皇位を継承させたかったため、 天智天皇が崩御後、672年に大きな争いが起きるのですが、 それを壬申の乱といいます。 この戦いで、大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害します。 その後、大海人皇子が即位して天武天皇となり、 妻とともに大和三山の中心に中国の都にならい、「藤原京」を造営しました。
いかがでしょうか?少し関係性といいますか、 飛鳥〜藤原京〜平城京への歴史の理解がつながったでしょうか・・?
こちらに大和三山の写真を掲載しました。 ↓↓
藤原京のあったあたりもそうですが、 山野辺にある三輪山の背後から日が昇り、二上山の影に夕日が沈みます。 古代より、二上山は死者を弔う山であり、多くの古墳が西向きに 作られているのはそのせいでしょうか、 この辺は大型の前方後円墳、小古墳が本当に多いところで、 歴史的にも、とても貴重です。
(2022.12.10) |
|