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高松塚古墳の壁画に新たな一説!?
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皆さん、こんにちは。春もたけなわ、と言いたいところなのですが既に「夏日」が続いています。 エアコンは何とかつけないように耐えているのですが、考えてみますとまだ4月、 今日は26度でしたが、昨年の4月の平均気温は20度くらいだったとのこと、 今年は本当に信じがたい暑さですね。 夏本番になると一体どうなってしまうのか心配になってしまいます。。
さて、先日のニュースで、高松塚古墳の壁画について、ひとつの説が紹介されました。 高松塚古墳は、藤原京があった時代、文武天皇が即位し、 大宝律令が制定された頃ですが、平城京に遷都されるのが710年ですので、 その前の頃に作られたとされています。 今から約1300年も前の壁画が、色彩鮮やかな状態で残っているなんて、 何度考えてみても奇跡ですね。 ちなみに壁画が発見されたのは1972年のことでした。 村人がショウガを地中に保存しようと穴を掘ったところ、大きな切石が見つかり、 それが発端で調査がスタートしました。
高松塚古墳の壁画には、それぞれ4人一組、合計16人の人物が描かれていますが、 先日の一説については、描かれている男性の内の一人が何か長いものを持っているのですが、 これまでずっと「杖」だとされてきました。 ところが、その杖なるものは「マレット」だという説が浮上したのです。 マレットとは、馬に乗った人がL字型のマレットを持ち、ボールを打ち合う競技で、 「ポロ」と呼ばれています。
奈良時代には貴族たちが既にポロを楽しんでいた記録もありますし、 唐と交易をしていく中で、日本に伝わってきたのかもしれません。 当時の中国や日本では、打毬(だきゅう)と呼ばれていました。 それにしても今から1300年も前に、ポロが行われていたとは俄かに信じがたく、 しかも、古墳の壁画に描かれていることも驚きですね。 う〜ん、藤原京時代といえど、私たちが考える以上に文明が発達していたようです。
お話は引き続き、奈良時代に入ります。 平城京に遷都後、大仏でおなじみの東大寺が764年頃に完成します。 東大寺といえば、どうしても大仏が注目されてしまうのですが、 南大門から大仏殿に歩いて向かうと、大仏殿の手前右側に「鏡池」という 小さな池があります。 その池の向こう、奥あたりに「幻の塔」といわれる東塔がありました。 しかし、平安時代末期、権勢を振るっていた平清盛が東大寺を焼き討ちにし、 東塔は、火災により消失してしまいました。
東塔は以降、再建されていないのですが、ついに来年、 2025年に復元される予定で工事が進められています。
この東大寺の東塔ですが、何度も焼失していることも含め、 高さもいろいろな説がありましたが、5年以上の懸命な調査活動によって、 その詳細が発表されました。 その内容によりますと、高さは68メートル、何と!七重の塔だったそうです。 例えば奈良の周遊コースで、法隆寺を出発して、次はほぼ薬師寺や 唐招提寺に向かいますが、途中で薬師寺の東塔がちょこちょこ見えてきます。 その薬師寺の東塔が約34メートルですので、 東大寺の東塔は、建てられた当初は当然、威容を誇る高さだったことでしょう。
また、発表によりますと、現存しない建築様式とのことですので、 来年の復元が本当に待ち遠しく感じます。
しかしながら、平清盛が南都焼討で、東大寺や興福寺などの広大な寺院を 多くの軍勢で攻め入ったとは、やはり当時はそれほど寺院の力が 増大していたのでしょうが、この南都焼討からほどなくして、 平清盛は高熱に見舞われて亡くなりました。
東大寺の東塔はその後、鎌倉時代に再建されたのですが、 室町時代に入って、今度は落雷で焼失してしまったとのことです。 このように不運が重なった東塔ですが、 来年はその姿を再び見ることができるので楽しみですね。
現在は相輪の部分が東塔跡にありますので、 以下に写真を掲載させて頂きます。 ちなみに、東大寺の東塔は、この相輪部分だけで26メートルもあるそうです。
↓↓下記は高松塚古墳です。
(2024.04.25) |
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