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2025年07月のバックナンバー記事

雅に生きた悲運の大名 〜朝倉義景
皆さん、こんにちは。
夏もいよいよ本番、車窓からの風景も緑が濃く、眩しい季節となりました。

さて今回は、越前国、現在の福井県にかつて栄えた「一乗谷(いちじょうだに)」、
そしてその主、朝倉義景(あさくら よしかげ)についてのお話です。
ドラマや映画で織田信長が取り上げられることは多いので、
皆さんもいくつかご覧になられていると思いますが、信長と切っても切れないのが朝倉義景ですね。

戦国時代というと、どうしても織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった英雄たちに目が向きがちですが、
彼らの時代を陰で支え、あるいは対抗した「もう一つの物語」についてもご案内ができると良いですよね。

さて、朝倉義景は、越前の戦国大名であり、朝倉家の当主です。
一乗谷を本拠地とし、その地は「戦国の京都」とも称されたほどの繁栄を誇っていました。
当時の一乗谷は、京の都を模した美しい町並みが整えられ、館には四季折々の庭園が設けられました。

何より政治、経済、文化、すべてが整っており、当時は数万人が暮らしていたとも言われておりますし、
義景自身も和歌・連歌・能楽・茶の湯といった文化に深い理解を持つ教養人で、
どちらかというと、政治よりも「雅(みやび)」を重んじた大名でした。

朝倉氏遺跡
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とはいえ時代は、今日は味方か明日は敵、と戦国の真っ只中ですので、
やはり、織田信長のような軍事力と革新性を強みとする武将が時代を動かしていく頃でした。

朝倉義景は当初、信長とは対立姿勢を取らず、むしろ距離を置くような中立的な姿勢をとっていましたが、
時代が大きく動く頃で、1568年、織田信長が上洛を果たすと、政治構造が一変します。
その後、足利義昭は15代将軍として室町幕府を再興するのですが、実権を握るのは織田信長でした。

次第に不満を募らせた義昭は、信長の独裁に対抗するようになり、
各地の大名に「反信長包囲網」への参加を呼びかけます。
義昭が特に期待をかけたのが、名門でありながら独立性を保ち続けていた越前の朝倉義景でした。

朝倉義景は、義昭からの度重なる要請に加え、信長が朝倉氏と同盟関係にあった浅井長政を通じて
義景への圧力を強めてきたことから、ついに義景も動かざるを得なくなります。
この時代は、いろいろ考えている内に周囲の状況もどんどん変わっていくのでしょうね。
こうして朝倉・浅井・本願寺・武田・毛利など、名だたる大名が信長に対抗する構図が生まれました。

しかし、その後も常に決断が遅れ、行動は常に後手に回ってしまうのです。
やはりこの時代は決断がすべてを動かすのですね。
浅井長政と連携した金ヶ崎の退き口では、信長を一度は窮地に追いやりながらも決定打を欠き、
信長は脱出、その後も動きの遅さ、重臣同士の不和、家臣の離反が相次ぎ、朝倉家はピンチを迎えます。

そして遂に1573年、織田信長は越前へと進軍し、ついに一乗谷を攻め落としました。
一乗谷の町は、ことごとく焼かれ、義景は自害することとなり、朝倉家は滅亡となったのですが、
わずか2ヶ月後には、盟友であった浅井長政も滅び、信長によって包囲網は完全に打ち破られました。

現在、一乗谷朝倉氏遺跡では、発掘によってかつての町割りや館の礎石、庭園跡などが復元されており、
戦国時代の都市構造が実際に歩いて体感できる、日本でも珍しい観光地となっています。
一乗谷は“戦国の京都”と言われたのですが、朝倉義景は文化人であり、
戦国の雅を守ろうとした最後の人とも言われています。
織田信長がスピードを重視し、合理的に物事を進める一方で、
義景は“美と伝統”を重んじました。

特に、義景の館跡や庭園は見どころで、静けさの中に彼の美意識や哀愁が感じられる空間です。
毎年、地元では「朝倉義景公まつり」も行われ、今なお敬愛の念を集めています。

朝倉氏の館は、山を背後に取り込んだ広大な敷地に規則正しく建物が配置され、
湯殿を含めると19,000平方メートルにも及びます。
朝倉義景は1568年、足利義昭が15代将軍となる前に、この館に招いて盛大にもてなしたそうです。
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(2025.07.27)

 
 
   
 
 
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